小町の休日

植物を育てたり、化粧品を手作りしたり、釣りしたり、温泉に行ったり。。。「美・食・遊」に大きくカテゴリ分けした気ままな休日を、とりとめなく書きとめたブログ。

織田信長を偲ぶ旅 光秀首塚 → 本能寺 → 妙覚寺

安土城の後は、明智光秀の塚へ。
その後、本能寺の織田信長本廊を御参りして御朱印をもらい、妙覚寺へ行った。
明智光秀首塚 → 本能寺 → 妙覚寺

光秀首塚

安土城から本能寺へ向かう途中、明智光秀の首塚に行った。


そもそも京都はせせこましい所が多いけど、この首塚がある所は歩かないと無理。
川沿いを歩く。

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この案内板を見つけたら、左に入る。

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案内板

曲がってすぐ左手に、この首塚はあった。


1582年6月2日本能寺の変。
同13日。明智光秀は、山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れた。
坂本城に逃げる途中、小栗栖の竹藪で農民に襲われ重症を負った為、自刃し家臣に首を打たせた。


その首は家臣によって隠されたと言われている。
が、吉田兼見の日記「兼見卿記」によると、15日までにその首は発見され、18日から粟田口に家臣と共に晒された。


数日晒された後、22~23日には近くに埋められ塚が築かれた。
江戸時代の他の書物にも、その塚が蹴上付近にあり、三条通り北側の人家の裏側にあると書かれている。


1770~80年頃、蹴上付近からここへ石塔婆が移され、首もここに埋められたと伝えられる。


「明智光秀の塚」と書かれた案内板には、そう書かれている。

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「明智光秀の塚」案内板

ちなみに、「胴塚」という光秀を弔う場所が小栗栖にあるらしい。
ここが「首塚」なら、胴体を弔った場所なんやろうか。。。


案内板の後方に、「光秀の塚」はあった。


こんなせせこましいわかりにくい場所にあるのに、それでも私たち以外にも訪れている人が数人。
何人も入れないような、小さなわずかなスペースしかなく。
ほんとに小さい敷地?と言うかスペース?


左側に小さな石塚があり、年期が入ったその石塚は、鉄分の多い温泉の露天風呂にあるような岩のよう。
黄色茶色く錆色がかってて、、、何て言うか、、、確か血も鉄分含んでるよな、、、
直視するのが怖いほど、時代を感じさせるものだった。


間違いなく本物だと感じるだけのものがあった。


そして、「光秀公」と書かれたお参りするお社のようなものがあって、御参りした。
その横の壁に、新聞記事が貼ってあったので写メ。

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新聞記事
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村上教授と新聞記事

せっかちなお連れのおかげでゆっくりその場に留まれない為、こういった文章が書かれたものは写メをとっておき、帰宅してからじっくり読むことにしている。


帰宅後、ゆっくり読んでみた。
この記事の写真の男性は、奈良大学文学部史学科(日本文化史)の村上紀夫教授。


村上教授の新刊「江戸時代の明智光秀」によって、光秀の首塚が移転されたことが明らかになったと言う。
「謀反人として白い目で見られてきた光秀のイメージが、この首塚の経緯と共に明らかになってきた」ということで、首塚の経緯と共に流転する光秀のイメージが記載された記事だった。


私にとって、とても興味深い記事だった。
改めて、写メを撮っておいて良かったと思った。


本能寺

先月、この本能寺に来たばかり。
その時は本堂の中に入っただけで、「本能寺の変が実際にあった当時の本能寺跡地へ行きたい」と言って、すぐにそちらへ移動してしまった。


帰宅して本能寺のパンフレットを読み、信長のお墓がここにあったことを知った。
どうしてもここのお墓に手を合わせたくて、リベンジを誓ったのだった。
で、今日。

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本能寺 本堂


本堂の右側に、奥へ続く道があった。
なんであの時気づかへんかったんや???
左手にある本堂を眺めながら、その道を歩いた。

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横から見る本堂

本能寺 信長公廊

道を進むと、その奥に信長の公廟があった。

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信長公廊のガイド

先ほどの安土城の本廊は、羽柴秀吉が決めたお墓。
なんで信長の血縁者でもない一家臣が、、、と、私的には正直腑に落ちない。


対し、ここの公廊は、れっきとした血縁者である信長の三男、織田信孝が建立したお墓だと、案内板に書かれていた。
しかも、「本能寺の変から1ヶ月後の7月3日、早くも本能寺を父信長の墓所と定めた」と、記載されている。


わずか十数日の光秀天下が終わった後、信孝は父信長の燼骨収集作業を進めていたとある。


この「燼」は、訓読みでは「のこ(り)」「もえさ(し)」「もえのこ(り)」と読むらしく、「焼け跡」などの意味合いがあるらしい。
ここに記載されている「信長らの燼骨収集の作業をすすめ」が何か生々しく感じた。


その作業結果についての記載はない。
が、誰もが知る通り信長のご遺体は見つからなかった。
代わりに「武将の魂とされる信長所持の太刀が納められている」とのこと。


私は今日、安土城の本廊と本能寺の公廊2つのお墓を御参りした。
どちらともご遺骨が納められているわけではない、残された者によってお墓と決められた場所。
でも私は、本能寺の方が、より信長のお墓という重みを感じることができた。


ちなみに、「信長のご遺骨が納められたお墓」があると言い伝えられているあるお寺が、京都に存在する。
以前から私が行ってみたかったお寺のひとつ。


そのお寺には、信長の長男信忠や森蘭丸たち三兄弟のお墓もあるらしい。
近いうち行ってみたいと思う。


本能寺 供養塔

信長公廟の左側には、本能寺の変で亡くなった方たちの供養塔と、その名前が書かれたプレートが立ててあった。


最初の方に「森力丸」「森蘭丸」という名前が並ぶ。
それを見ると、なんだかさめざめとした気持ちになった。


蘭丸のお父さん森可成は、信長の父親時代から織田家に仕える家臣だった。
蘭丸は12才の頃信長に小姓として仕え、二人の弟たちと共に本能寺の変で討ち死にした。


森家の三男「蘭丸」享年18歳、四男「坊丸」享年17歳、五男「力丸」享年15歳。
けど、坊丸の名前がなかったような?
下の方にあったんやろか???


蘭丸たちのお墓は、岐阜県にある森家菩提寺の可成寺に、三兄弟仲良く並んで在る。
ここへもいつか行ってみたい。


蘭丸は6人兄弟で、力丸の下に末の弟がいた。
本能寺の変の年(たぶん)、蘭丸たち3人の兄の後を追うように信長の小姓となった。


が、この末の弟は幼さゆえの失態で、信長から母親の元に返却。
やんちゃやったっぽい。


森家は、長男が早々と亡くなっており、同時期に父親も。
そして、本能寺の変で蘭丸たち三兄弟が、、、
家督を継いでた次男「長可」も、本能寺の変の2年後「小牧・長久手の戦い」で戦死。


六男がもし、蘭丸たちと共に信長に仕え続けてたなら、森家は途絶えていたかも知れない。
信長の返却が結果オーライ、後の森家存続に繋がったということになる。


ちなみに、この森家は清和源氏を祖とするらしい。


本能寺 御朱印

先月ここへ来た時には、まだ御朱印帳を持ってなかった。
先ほど安土城そうけんじで購入した御朱印帳に、本能寺の御朱印をいただいた。

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本能寺の御朱印


本能寺の「能」の右側の字、カタカナの「ヒ」ふたつ。
本能寺では、「ヒ」を「去」と表記する。


信長や本能寺の変で犠牲になった方々への配慮と、何度も災禍に見舞われた歴史から、例えカタカナであっても「ヒ=火」を忌み嫌う。


「火は去る」と表記することに、供養と願いが込められているらしい。
と、お連れから教えてもらった。


御朱印の「本能寺」も、本能寺内で目にする「本能寺」の文字、どれも「去」だった。


妙覚寺

妙覚寺は、本能寺から2kmほど離れた場所にある。


「信長=本能寺」というイメージが濃いけど、実は信長が京都で泊まっていたのは、主にこの妙覚寺だったとか。


本能寺の変の時に、信長の嫡男信忠が宿泊していた場所でもある。


そんなことから、お連れが今いちばん行きたがってるお寺。
先月も本能寺に行った後来てみたけど、コロナの影響で入れないようになっていた。


今日もめげずにリベンジ。
今回は、入っても良さげだったので入ってみた。

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妙覚寺


でも、誰もいない。
本殿も、参拝もできないようになっていた。

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本殿


寺務所が開いていて中に人がいたので、聞いてみた。
残念ながら、コロナの影響で今はまだ御朱印はもらえないとの事。


来週にライトアップがあるらしく、その時は御朱印ももらえるらしい。
来たいけど、その時は人出が多いと予測でき、このコロナ禍では悩むところ。


ほんま残念(。-ω-)
まぁでもせっかく来たんやしと、少しだけ散策してから帰った。


趣のある、日本庭園風の場所があった。

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趣のある建物


信忠が、松姫を正室に迎えるため呼び寄せてた場所もこの妙覚寺。
幼い頃に親同士が政略的に勝手に決めた婚約者であり、その後敵対し婚約破棄となったものの、ふたりの気持ちは大人になっても変わらなかったとされる。


やっと長年の想いを遂げられそうな、そんな時。
まさかの本能寺の変が起こり、信忠は自刀した。


本能寺の変がなければこの妙覚寺で再会を喜び合い、松姫は信忠の正室となってたはず。
そんな信忠と松姫に想いを馳せながら、本格的に妙覚寺を訪れたいと思う。


諸行無常と向き合う

今日の信長を偲ぶ旅は、「諸行無常」がついてまわった。
「この世には永遠に続くものなどない」そんなあたりまえのことを忘れて生活してしまってる私にとって、諸行無常と向き合う良い旅となった。


この世は常に移り変わり、万物(この世に存在する全てのもの)は変わり行く。
この世には、永遠に滅びないものなどない。
命も権力も景色も全て。


諸行無常とは、そんなこの世の道理を表している。


信長がとても好んで舞ったと伝えられる「人間五十年」の一節は、この諸行無常に通じている。
信長はそんなこの世の道理を、常に忘れないよう言い聞かせて生きてたのかも。


戦国時代に生きた人たちの感性は、常に命と向き合ってたこともあってか、「諸行無常」「この世の儚さ」を説いたものが多く、現代の私たちにこそ必要な教えであるように思える。
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