織田信長築城の安土城址に行ってきた。安土城摠見寺の御朱印帳と御朱印を申し込んで、天守閣址まで登ってきた。
- ぎっくり腰と祖母の鈴
- 安土城到着
- 摠見寺の大鐘
- 織田信忠邸址
- 織田信澄邸址と森蘭丸邸址
- 二の丸址の織田信長本廊
- 天主閣址
- 護国駄都塔と残る石塀
- 摠見寺本堂址
- 三重塔
- 仁王門
- 一文字写経
- 織田信雄4代供養塔
ぎっくり腰と祖母の鈴
安土城に行くと決まってたのに、3日前にぎっくり腰になってしまった。
ぎっくり腰と言っても、ただお風呂で体を洗ってただけ。
前屈みモードから体を戻そうとした時、突然の激痛‼️
娘に助けを求め何とかお風呂から脱出、即布団。
その日は寝返りすら打てず。
楽しみにしてたのに、もしかしたら安土城無理かもと弱気に。。。
まぁぼちぼち動けるようにはなったものの、腰の動きは制限されたままの状態。
どうしようか悩む私を無視、お連れは強行突破。
私が何がなんでも歩くと言い張るであろうことを見越し、あるセリフを言い放った。
それにまんまと乗せられ。。。
歩けるだけ歩いてみようという気になってしまった。
そして昨夜の入浴中。
突然、頭に祖母からもらった鈴が浮かんだ。
とは言っても、その鈴をもらったのは私が小学校入学したばっかりの頃。
とんでもなく大昔の話。
祖母が来ると聞いて急いで学校から帰ったのに、祖母がもう帰ってしまってて。
祖母が会えない代わりにと、鈴を置いて帰って行ったと母から鈴を渡され、
鈴ちゃうーおばぁちゃんがえーんやーと、鈴を手にわんわん泣いた。
なんでか、その鈴が頭に出てきて。
その鈴を、どうしても御朱印帳袋に付けて行きたくなった。
急いでお風呂から出て、あちこち探し回って(^^;)
なんとか見つけ出し、御朱印帳袋に付けておいた。
何十年も前のものなのに、相変わらずの音色。
空気を浄化するような、透き通ったような音。
私は、いつの間にこの鈴の存在を忘れてしまってたのか。。。
安土城到着
腰が痛いので準備に時間かかるからと、珍しく早起きして準備万端で、安土城に向かった。
高速を下り、のどかな田園地帯をちまちま走り、安土城に到着‼️
入り口で、欲しかった御朱印帳を購入。
早速、御朱印をお願いすると、番号札を渡された。
下りてきた時に、この番号札と引き換えるらしい。
ここが入り口。この道は大手道と言うらしい。
「登りの階段405段。
所要時間往復約1時間。」
ここからは、御手洗いもないらしい。
もし、行きたくなったらどうしよう。
腰も痛いのに(;゜゜)
しかも、すごい急な階段。
不安や(。-ω-)
とりあえず置いてあった杖をお友に、大手道を上り始めた。
現在、12時35分。
スタート‼️
摠見寺の大鐘
よちよちと大手道を少し上ると、右手に趣のある鐘が見えた。
お願いごとをしながら、鐘をついたら良いと書いてあった。
鐘をつく機会なんて、なかなかない。
いっぺんやってみたかってんなぁ。
喜んで鐘をついてみた。
お寺の鐘って、なんでこんな哀愁漂う響きなんやろ。
「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり」を思い出す。
祇園精舎の鐘の音、聞いた事ないけど(-_- )
お寺の鐘って、諸行無常の響きそのものと思う。
どこか切なくて、哀愁漂う響き。
生きてる者にこの世の儚さを知らせるためなのか、亡くなった方を慰めるためなのか、、、両方のような、、、
どちらにしても、切なく諸行無常の響きそのもの。
お賽銭箱の後ろには、私の好きな「人間五十年」の一節。
鐘をつく時にしっかり見えるように刻まれていて、それを見ると、なんだか個人的なお願いなんてどうでも良くなって、しみじみと「人間五十年」の一節を目で追い信長を偲んで鐘をついた。
鐘の音の余韻と鳥のさえずりのコラボが、これまた情緒があって癒される。
元の摠見寺が燃えてしまった為、仮摠見寺として建てられたのがここなんだとか。
ちなみに、ここは徳川家康邸址だと伝えられている。
特別拝観料を払えば中に入れると、残念ながら帰宅してから知った。
織田信忠邸址
階段が一段落。
こんな高いとこまで登ってきた。
改めて上から階段を見ると、まぁすごい階段。
でも、木の間から覗く景色がすごいきれいで、ホッと一息。
ここから少し歩くと、織田信忠邸址。
信長の長男、信忠の屋敷址と伝わる場所。
この場所は、安土城の防衛ラインに当たる重要な場所とされ、敢えて長男である信忠の屋敷が置かれていたと考えられる。
後々畑として使用された為、建物の構造がわかるような物が残ってないとの事で、詳細は不明らしい。
武田信玄の娘松姫と、信長の息子の物語を描いた少女漫画が家にある。
婚約してたのに破談になってしまう、ラブストーリー。
どの息子の話だったかこの時思い出せず、歩きながらずっと考えてた。
「勝」という字がついてる名前だと思い込み、一生懸命考えてた。
結局思い出せず、帰って確認。
なんと、、、この信忠と松姫の話だった。
「勝」は、松姫のお兄さん「勝頼」だったという、名前自体が違っていたから思い出せるはずない話。
織田信澄邸址と森蘭丸邸址
織田信澄邸址と森蘭丸邸址が並んでいた。
左側が織田信澄邸址。
織田信澄は、織田信長の甥っ子さん。
信長は、謀反を企てたとして弟を暗殺している。
信澄は、その殺された信長の弟の息子。
でも、謀反を起こした者の息子だとは思えないぐらい、良いポジションが与えられていたとか。
ただ、信長が信澄の為に組んだ縁談のお相手が、明智光秀の娘で。
明智光秀の娘と結婚したことが、結果的に悲惨な最期に繋がってしまう。
本能寺の変が起こり混乱する中、義父である明智光秀と共謀だと噂された。
そして、信澄はその汚名を着せられたまま討たれ、晒し首にされてしまったとか。
そんな事実はなかったらしく、さぞかし無念だったと思う。
右側が森蘭丸邸址。
森蘭丸と言えば美少年との噂(⁉)が絶えず、なんと言っても、信長からこの上ない寵愛を得ていたとされる人物。
「信長公の自讃三つ。
第一は、奥州より献じたる白斑の鷹。これ、第一希代の逸物なり。
第二に、青の馬。これは、いかなる砂浜、石原を召されても、つまづく事なし。
第三は、御小姓、森蘭丸。これは、忠功世に知るところなり。
この三つ、すぐれたる御秘蔵のよし、常にのたまいしとぞ。」
これは信長自身が言ったとされる、森蘭丸寵愛を示す有名なエピソード。
要は、信長自身が「自慢できるものは、一に白斑の鷹、二に青の鳥、三に蘭丸」と言っていた。
蘭丸は、真っ正直な性格だったとされる。
信長と蘭丸のエピソードは、素の信長が垣間見れて微笑ましく面白い。
信長に意見することもあったようで、信長も素直に聞いていたとか。
蘭丸は、小姓として信長に仕えていたので、今で言う秘書のようなもの。
一番身近だったかも。
二の丸址の織田信長本廊
二の丸址、織田信長公本廊の石碑。
ここを上ると、信長の本廊があった。
本廊とは、まぁお墓のようなものかと。
お墓と言っても、信長の御遺骨はなく遺品が納められている。
羽柴秀吉が、信長の遺品(太刀・鳥帽子・直垂)を埋葬しここをお墓と決め、盛大な一周忌の法要を行ったと伝えられている。
本能寺の灰も埋葬されているとも言われる。
けど、、、
信長の血筋となんの関係もない、信長の一家臣だった秀吉が法要を仕切るって(  ̄- ̄)
なんだかなぁ。
それに、「ここお墓に決めたし!」って、、、
どうなん(;゜゜)
信長のように有名だと、お墓とされる場所がたくさんあるという現象が起こる。
お盆とか、どこのお墓に帰ったらいいのか迷ってはらへんやろか。
有名人は、亡くなってからもなにかと大変。
日本全国にたくさんある信長のお墓とされる場所、信長の魂はその中のどこに留まってるんやろか。。。
御遺骨が眠ってない場所を、お墓と呼べるんやろうか。。。
なんだかんだと言いながらも、信長のお墓としてちゃんと手を合わせてきた。
お墓とされるものは写真撮らないので、言葉で表現するしかないけど、、、
小スペースに絵馬がかけられてあったり、小さな神社を思わせるような雰囲気すらあって。
でも、神社のような澄んだ空気感でもなく、私にはここの空気が重たく感じられた。
まるで何かを封印するかのように、お墓の上に重石のように乗せられた石といい、
私には、ちょっとした違和感を感じさせる場所だった。
天主閣址
この階段を上ったら、天主閣址。
天主閣に到着‼️
とは言っても、焼け落ちてしまったので、だだっ広い敷地のみ。
この敷地の所々に見られる平らな石。
これは、1.2mの間隔で並んでいるらしく、地階部分に当たるんだとか。
この上にさらに天主が建っていたらしい。
実際には、地階1階地上6階の天主で、日本で初めての木造高層建築物だったとか。
信長の庇護のもと日本で布教活動していた、宣教師ルイス・フロイスは、ヨーロッパにもない気品ある建物だと言っている。
当時の豪華絢爛な天主を見ることなどできるはずもなく、ここに立ってみたところで、私にはその姿の想像すらできなかった。
私がここに来たかった理由のひとつが、ここからの景色。
信長が見たであろう景色を、違う時代ではあっても見てみたかった。
まずは、人が群れてない方の景色。
この右下の方に、さっきの信長のお墓が見える。
私は、こっちの景色の方が気になった。
次に、人が賑わってる方の天主閣からの景色。
信長の見た琵琶湖は、きっともっと近かったんやろな。
天主閣まで上らせてくれた、私の相棒「安土棒」。
帰宅後改めてHPを見ると、近くに天主の5~6階を復元した豪華絢爛なものが見れるとの記載!!( ; ロ)゚ ゚
あーまた近々リベンジやな。
ちなみに、この安土城は「天守閣」を「天主閣」と表記するらしい。
護国駄都塔と残る石塀
所々にある石垣がすごい。
なんの機材もない時代に、どうやってこんな場所に大きさの違う石を積み上げたんやろ。
お城が1夜にして焼け落ちたと言うのに、所々にこうやって500年近く残ってる。
この技術がすごいと思う。
二の丸前にあった、「護国駄都塔」と書かれた石塔。
行きはさっさと本廊に向かい、帰りに改めてこの謎の石塔を眺めてみた。
「護国」はわかるけど、「駄都」?
どういう意味やろか。
後ろに、「天保十三年 四月一日」と刻まれていた。
西暦1842年?幕末?本能寺の変から260年後?
徳川家康ならまだしも、信長と直接関わった者などいない時代に誰が何を思って建てはったんやろ???
摠見寺本堂址
ここが、摠見寺の本堂があった場所とされる。
見事なイチョウ。
黄色く色づいてたら、もっときれいやろなぁ。
銀杏がいっぱい落ちていた。
拾いたかったけど、今日は我慢。
代わりに、落ちてたイチョウの葉っぱをひとつ、記念に持ち帰ることにした。
ここは、展望台となっている。
今日一番の見事な景色。
三重塔
国の重要文化財、三重塔。
情緒ある景色を背景に、みごとな三重塔。
紅葉でなかった事だけが悔やまれる。
この三重塔は、室町時代の建物らしい。
織田信長が、甲賀の長寿寺から移築したものなんだとか。
仁王門へと続く、下りの階段。
これまた急過ぎる下り道。
下から眺める三重塔。
名残惜しく、階段降りながらも振り返る。
迫力満点。
仁王門
階段を下りると、仁王門が見えてきた。
表門はこっちかな。
仁王門も金剛力士も共に、国の重要文化財。
案内板には、
「織田信長が天正四年(1567年)築城に着手し、あわせて摠見寺を建てるに際し、甲賀郡から移建したと伝えられる。」とある。
三重塔と同じ!?
あとは山道をぷらぷらしながら、帰る。
一文字写経
私の相棒、「安土棒」との別れの時が来た。
離れがたいなぁ(-_- )
おかげで、ぎっくり腰でありながら、無事念願の天主閣達成。
ありがとう、安土棒(-_-)/~~~
ここで、13時51分。
所要時間往復1時間16分。
ぎっくり腰にしては、よー歩いたなぁ。
入る時お願いしてた御朱印帳を受け取って、娘への願かけのお土産を買った。
出口を出ると、般若心経の一文字写経コーナーが。
お賽銭箱は、水槽 笑
せっかくなので、思い出に「一文字写経」をして帰ることにした。
お連れと2人で「恐怖」の文字(^_^;)
織田信雄4代供養塔
帰り道、どうしても気になることが。
天主閣からの帰り道、織田信雄4代供養塔があった。
織田信雄って誰?
何で4代も供養されてるんやろ?
「のぶ…なんて読むん…」
「のぶおさんやろ」
「いや、確かのぶかつさんていたで」
「けど、勝つって漢字やったような…」
帰り道もずっと気になり、「のぶおさん」と呼んでいるお連れを横に、ググってみた。
やっぱり「のぶかつさん」で合っていた。
どうやら、本能寺の変の後、信長ご自慢の城を敵に渡すもんかと、安土城に火を放った人物で、信長の息子。
ルイス・フロイスは、「信長の息子の中で一番無能だった」と回想してたらしく。
結構な言われよう、、、
信長の子息で大名として残ったのは、この信雄の系統だけだとか。
豊臣秀吉や徳川家康の間を行ったり来たり。
スパイじみたようなことまでして、要領よくうまく立ち回って生き延びたといった感じ。
信長の息子であって、しかも切腹だーなんだーのこの時代に、逆に勇気ある行動のような(^o^;)
結局、なんで4代までも祀られてるのか、いまいちわからんまんま。
でも、このお城を燃やしたと伝えられる信雄の供養塔が、4代にも渡ってこの安土城にあるやて複雑やな。。。
なんだかんだ言いながら、次は本能寺へ向かった。