小町の休日

植物を育てたり、化粧品を手作りしたり、釣りしたり、温泉に行ったり。。。「美・食・遊」に大きくカテゴリ分けした気ままな休日を、とりとめなく書きとめたブログ。

御朱印帳探しと敦盛の舞「人間五十年」の旅

御朱印巡りをするため、御朱印帳探しの旅に行った。
もうひとつの目的は、織田信長が好きだった敦盛の舞「人間五十年」の石碑。
織田信長縁のお寺や神社を訪ねた。
本能寺 → 本能寺跡 → 建勲神社。

御朱印帳

御朱印帳とは、お寺や神社を参拝した時に押してもらう朱印を集める帳面。
御朱印巡りとは、言わばスタンプラリーのようなもの。


私は、昔っから織田信長の大ファン。
安土城摠見寺の御朱印帳を見せてもらって、欲しいなと思っていた。


今日、安土城に行くつもりが行けなくなってしまい、織田家家紋入りの御朱印帳を見てみようと、まずは本能寺へと向かった。


本能寺

本能寺に到着!!

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表門をくぐると、右手に「本能寺の変 天下人」という宝物展が開催されていた。
織田信長の甲冑も展示されていて、ちらっと見えたけど、思ってたより小さかった。

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正面奥が本堂。
本堂の中は、すごい金ピカで豪華だった。


本堂の左手には、ホテル本能寺
ホテル本能寺ってあったんや👀
うわぁ、泊まってみたいなぁ~


参拝後、目的の御朱印帳を拝見。
確かに家紋入っててかっこいい。

んー(;>_<;)
けどなぁ…安土城摠見寺の赤と黒が気になる。
悩んだ末、今回は購入するのをやめた。


本能寺は、行ってみたかったひとつだった。
でもよく考えてみると、本能寺の変が起こった本能寺ではないし、織田信長が亡くなった後に建てられたお寺。


やっぱり、ほんまもんの本能寺に行ってみたい。
本能寺の変で有名な本能寺、織田信長が最期を迎えたとされる本能寺跡へGo。


本能寺跡

ん?到着?

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「え。。。。。(・・;)」


本能寺は、本能寺の変で焼け落ちた。
もちろん、それは知っている。
私の中にあった本能寺跡は、焼け落ちて何もなくなってしまった、だだっ広い寂しい場所。


その何もなくなってしまった寂しい場所、信長が自分の定めを悟った場所で、信長の世界に浸りたかった。


確かに、「本能寺跡」と書かれた石碑があったものの、普通に住宅街。
目が点に(・・;)


本能寺消防分団と書かれた建物が建っていた。
「しょ…消防分団…?」
焼け落ちてしまった本能寺に配慮してか、火を消す消防分団の建物に。。。


ま、まぁ…供養の意味でも、良いかも知れん。。。
火を使うお風呂屋さんとかなら、シャレにならんもんなぁ。
あーだこーだと言いながら、次は建勲神社へ。


建勲神社

建勲神社の御朱印帳もネットで見てかっこよかったので、実物を見てみたかった。


そー言えばここは神社やん、安土城摠見寺はお寺。
神社用とお寺用、2冊持つってのも有りやな。
そんなこと思いながらの神社前。

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建勲神社の、創建の経緯などが書かれている。

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「織田信長を祀る神社で、通称けんくん神社とよばれる。天下を統一した信長の偉勲を称え、明治二年(一八六九)明治天皇により創建された。」


正式には、「たけいさお神社」と言うらしい。
それにしても、天皇に創建されるなんてすごすぎる。
信長が亡くなってから、約300年もの年月が流れた後に、天皇によって創建されるとは。
亡くなってからの影響力もハンパない。


鳥居をくぐって、前方が義照稲荷大社、左側が建勲神社への道。

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私たちは左へ。
結構急な階段。
ここから、本殿社務所まで80m、石段約100段。

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この階段を上ると、「大平和敬神」と刻まれた大きな神石。
この神石がある場所は、旧本殿、真の御柱跡らしい。

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前は、ここが本殿やったんかぁ。


またまた急な階段を上った所に、境内案内図。

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とりあえずちらっとだけ読んで、あとでゆっくり読むため撮影。


案内図を左へ曲がると、、、
今回の目的のひとつ、人間五十年の石碑。

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信長が好きだったと伝えられている、敦盛の舞の一節。
この一節が、私も本当に大好きで。


敦盛の舞

この「人間五十年」を知った時、平家物語の始まり「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり……」を思い出した。


「どんなものもいつかは滅びる」、この世は常に移り変わっていて、命も栄華もおごりも永遠に続くものではない。
この世の無常と儚さを説いてから、平家が滅んで行く様、そして、平家を滅ぼした英雄源義経もまた、兄頼朝によって滅ぼされるところまでもが描かれている。


てっきり平家物語と思い込み、読み返してみたけど、平家物語の「敦盛」にはこの「人間五十年」がない。
なんでなんで?
調べてみると、この「敦盛の舞」は、室町時代に流行った曲舞のひとつ「幸若舞」の演目「敦盛」に出てくる一節だった。


平家物語の「敦盛」しか知らなかった私は、「幸若舞の敦盛」を読んでみることに。
史実はさておき、「幸若舞の敦盛」は平家物語を元に詳しく書き足したような感じ。
内容は少し違うところもあった。


幸若舞の敦盛

敦盛は、平清盛の甥っ子さん。
一の谷の合戦での平家敗退の時、祖父の形見の笛を忘れたことを思い出し、取りに戻ったことで逃げ遅れてしまう。


そこへ通りかかった源氏の猛将 熊谷直実に呼び止められ、一騎討ちをすることになってしまった。
この時、敦盛はまだ16歳。


熊谷直実がトドメをさそうとした時、敦盛が我が子と同じ年だと知る。
敦盛と息子がタブって、敦盛を助けることにした。
でも、味方勢が来てるのが見え、せめて自分の手で首を取ろうと決めた。


熊谷直実は、敦盛に丁寧に弔うことを約束して泣く泣く首をとり、あたりかまわず泣きわめいた。
その後、敦盛が笛や書物を持っていたことがわかり、涙に暮れ更に心を痛めた。


熊谷直実は、敦盛の首をとった恩賞(褒美)を辞退し、敦盛の父親「経盛」の元に亡骸と形見の品を送り届けた。


敦盛の父経盛は、情深い熊谷直実に感謝し、自筆の御礼の手紙を送る。
この内容がまた泣ける。
その手紙を読んだ熊谷直実は、「今月にも平家攻めがあると聞いている。またこんな苦しい思いをしなければならないのか」と悩み、


「思えば、この世に永遠などない。
葉っぱに付く露や、水に映る月のように儚い。

栄華を誇った晋の富豪の建物 金谷園も、今は無常の風にさらされている。
月を楽しみ優雅に過ごした人々も、雲に隠れていなくなった。

人の世の五十年なんて、下天のたった1日。
天界の時間の流れと比べれば、夢か幻のように儚い。
一度生まれたからには、滅びなない者などない。

これが定めとは、悔しい限りだ。」

と、敦盛の首がある都へ上った。


都に着いた熊谷直実は、敦盛の首を盗み、僧侶に頼んで荼毘に付し、
その遺骨を持って東山黒谷に住む。
そして、法然上人に頼んで出家し、蓮生と名乗った。


敵とは言え、我が子と同じ年頃の少年の首を取った現実が深い心の傷となり、出家した様がよくわかる。


そして、信長が好きだったこの一節は、熊谷直実が言う「この世の定め」だった事もよくわかった。


人間五十年

信長が好んで舞っていたのは、この「人間五十年 下天 の内を比ぶれば 夢幻の如くなり ひとたび生を得て 滅ぼせぬ者のあるべきか」の部分。
信長は、松井友閑という町人に幸若舞を習い、この節だけを慣れた口つきで歌い舞っていたと、伝えられている。


1560年 6月12日(旧暦5月19日)、桶狭間の戦い。

"この時、信長は「敦盛の舞」を舞った。
「人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか」と歌い、ホラ貝ふけ、具足よこせとおっしゃって、鎧をつけて、立ちながら御飯を食べ、御兜つけて御出陣なさった"

と、「信長公記」は伝える。


この時、今川義元の多勢軍が迫っていた。
兵の数からしても劣勢とされていた織田軍。
結果的に奇跡の勝利をおさめたものの、いつも以上に気を引き締めこの戦を迎えたはずで。


「戦のたび」ではなく、「桶狭間の戦い前」にこの一節を舞ったと伝えられているところが、また興味深い。
死への覚悟や恐怖、雑念を抑えるための自分への喝や精神統一の意味があるような。


常に死と向き合っていた信長にとっては、この一節が心の拠り所でもあったのかも。
「生まれたからには誰もが死ぬねん。これは生まれた者の定めやねん。」と、自分に言い聞かせるように。


権力者って、きっと孤独と思う。
弱音も簡単に吐けない、強い自分で居続けるのは、すごい精神力が必要と思う。


子供の頃教科書で習った、「泣かぬなら殺してしまえ時鳥」の短気で怖い信長は、私のイメージとほど遠い。


信長は、宣教師の奴隷だった黒人さんを譲り受け、「弥助」と名前を授け、奴隷としてではなく家臣にしたと言われる。


人種や身分が重視された時代に、才能ある者を分け隔てなく人選した信長、そして黒人さんに「弥助」と名付けるお茶目さ。
とても人間味にあふれた情のあるお方だったと、私はそんな気がする。


人間五十年、、、
平家物語にしろ、幸若舞にしろ、この時代の人たちの死生観や仏教色の強い思想は、現代の私たちに欠けているもので、本当にありがたい書物だと思う。

youtu.be


本殿

右手に社務所、左手に手水舎、正面に本殿。

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手前に祓い串なるものがあり、左→右→左と穢れを祓ってから、参拝。
そこには、絵画などが飾ってあった。


参拝した後、帰り道に向かおうとすると、大文字山が見える。

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ここは、平安京の玄武と位置付けられていた船岡山。
玄武は四神のひとつで、北の守り神。

四神は、東西南北を守る4つの神様。
東→青龍、西→白虎、南→朱雀、北→玄武


この山は、豊臣秀吉時代から織田信長の霊地とされてきたんだとか。
ふむふむ。その霊地に神社を創建かぁ。


天下布武の御朱印帳

参拝後、例の天下布武の御朱印帳を見に行った。
めちゃくちゃカッコいい‼️
決めた‼️
これを神社用の御朱印帳にする‼️


早速購入し、御朱印をもらった。

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そして、欲しかった「人間五十年」の御朱印も。
帰宅してから、この御朱印を自分で貼った。

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ちょっと失敗したかな。
やっぱり貼ってもらったら良かったな。。。

夜、本能寺から持って帰ってきたパンフレットや、建勲神社で撮った写真の文字を読んだ。
本能寺の本堂の裏手に、信長のお墓があると書いてある。


なんてことや( ´;゚;∀;゚;)


とりあえず、近いうちにまた本能寺へ行くことにした。